享保の頃、江戸で情死の流行した時代は、実に心中浄瑠璃の豊後節の全盛期てあって、益々情死の流行を催進する傾向があつた。それ故、元文四年幕府は豊後節をも禁示することになつた。しかし実際は豊後節のなほ依然として行はれ、延享の初に「粹すぎし梅の名代の豊後節、語るな聴くな心中の種」といふ落首も出た位で、江戸に於ける心中の流行が豊後節の切々たる哀音凄詞に負ふたことは此の落竹に徴しても明かである。
しかし、享保の心中制度の出でた後でも、情死事件は無論絶えなかつた。私は茲に自由恋愛の本場たる吉原遊廓に於ける心中に就て少しく記述してみよう。前述の如く享保の頃には豊後節が流行して吉原にも盛んに唄はれたので情死を促した傾向があり、それから遥に降つて文化の頃、鶴山検校が鶴山節といふのを創め、その声調がいかにも陰欝で豊後節同様に情死を唆る処のあるので、名主は令を布いて廓内に之を禁じた。今日でも新内で名高い尾上伊八、本名、原田伊太夫といへる浪人と尾上といふ遊女とが情死を企てたのは延享三年十二月であつた。処刑申渡の文に依ると、この伊太夫といふ男は、津軽藩の家来で江戸詰の筆役であつたが、春三月頃から吉原の遊女尾上に馴染んで奉公の務を欠ぎ、永の暇が出て無宿の浪人となった結果、尾上と情死を企て、十二月十三日の夜、尾上の所持せる刄器で女の咽喉を剌し、自分も腹を一箇所突き剌したが、両人共に自殺の目的を達することが出来なかつた。そこで伊太夫は日本橋で三日間晒らしものになつた上、非人頭善七へ渡された。この心中未遂事件は当時非常な評判であつたと見え、新内に唄はれたのみならず数多の落首まで作られた。
その後、明和六年の七月には遊女美吉野とその情夫の伊之助との心中があつた。この二人の情事を主材として作つたのが「明け烏」の浦里、時次郎であると伝へられてゐるが、固より確かでない。その後、天明五年七月には、藤枝外記といふ四千石の旗本が大菱屋抱への遊女綾衣と吉原田圃の農家で情死した。それが評判となつて、その以前の宝暦元年頃に五千石の旗本三浦肥後の情事に就て作られた小唄をば、更に廓内で唄ひ興ずるやうになつた。それは「君と寝ようか五千石取ろか、何の五千石君と寝よう」といふ小唄である。降つて安政四年の四月十九日、揚屋町の新九亀屋で同家抱への遊女玉川と雛次との二人が狎客の二人と同時に情死を遂げ、四人組の心中は前代未聞だとて当時の大評判であつた。
吉原遊廓の制として遊女の情死したものは、その手足を一緒に縄にて縛り、死骸を菰に惓いて埋めたものである。それは情死者の亡霊が何時までも残つて祟りをするから、此のやうに犬猫同様の取扱ひをして畜生道に堕落させて置けば人間に祟りをすることは出来ないと云ふ迷信に基いたもので、その愚や笑ふべく、その酷や憎むべきである。