却説、享保に発布された厳重の心中法度も年を経るに従つて次第に弛み、非人に下された情死未遂者をば、その親族より非人頭に金を出して良民に復するが如き風を生じ、それを足洗ひと称へるやうになつた。儒医井上金峨の「病間録」に「今の制には、男女共にその儘で乞食に下すばかり、有司は公で知り玉はざらん、その夜のうちに金を出して乞食の手より贖へばまた以前の素人となりて夫婦になるといへり。畢竟日本橋にて三日の辱を興ふる迄のことなり」とある。また、情死者の死骸を晒らしものにする法度も遂に全廃された。但し覚政の頃までは猶ほ此法度が行はれてゐたが「南水漫遊拾遺」の記事に依ると、「寛政五年二月十九日、阪町にて心中あり、男女の死骸を千日前の墓場に晒せし処、女の陰毛多き評判にて見物夥しく、その後、心中の晒らしもの止む」とある。これは大阪のことであるが、江戸に於ても同様な事情があって遺骸を晒すことを止めるやうになつたのであらう。
さりながら心中浄瑠璃及び演劇を厳禁した享保の制度は遥か後年に至るまでも、その威力を保つてゐた。例へば元禄十六年に出た近松の「曽根崎心中」には、お初徳兵衛の二人が曽根崎の天神社の境内で情死し、男が先づ刀を以て女の咽喉を剌して、その生命を絶ち、次で自身は剃刀で頸部を切つて死んだことを描写してあるのに、その後、享保十八年、印ち心中の狂言読物を禁止した法令の発布後十一年を経て上演された豊竹越前少椽の「お初天神記」には徳兵衛は女を殺し、自身も自殺せんとする処へ、皆々駆けつけて自殺を思ひ止らしめ、一命を助ける筋になつて居り、またお初の最期も悪漢九平次が印形のたくみの露顕した上からは、お上も聞き届け玉ふであらうと記して実際の事実をわざと矯飾し、心中でなかつたやうに取り繕つてある。また初代都一中の語り物の一てあった「助六心中」は、大阪の万屋助六と新町の槌屋の大夫揚巻との情死事件を題材にした者であるが、然るに享保十一年に板行された正本には、一旦情死を企てたけれども、その後、八左衛門の取持で助六の勘当も宥るされ、めでたく揚巻と添ふことになつてゐる。また元文三年、京都の聖護院の森の中で心中したお俊伝兵衛を中心にして、それに四条河原の噴嘩と孝子佐吉(院本では与次郎)事実の一部とを加味して作つた「近頃河原の達引」は、天明五年中村重助の作であるが、その結末は、お俊と伝兵衛とが芽出度く結婚して「千代八千代、羽を伸す鶴や亀山に、音は絶えせぬ瀧口が、仁あり義あり道を立て、運も開くる伝兵衛お俊、昔にかへるそのうわさ、めでたき末の代々までも、筆にまかせて書きにけり」などゝ、情死の事実を全く抹殺してゐる。
此の如く享保以後の浄瑠璃や演劇は、情死事件を仕組んだものでも、芽出たし芽出たしで筆を結び、情死の事実を曲げて、生きながらへたやうに結末をつけた。但し安永五年に始めて大阪の豊竹此吉座に上演した「桂川連理柵」の如きは、お半長右衛門の桂川に投身した情死事件を主材にしてゐるが、併し道行文もなく、文章も至ってあつさりして唯だ単に「名残も鴛の離れ得ぬ、衾をわけて出で行く、はては桂の川水に、浮名を流すぞはかなけれ」と極めて簡単に結末をつけ、情死の有様を少しも記してゐない。之を元禄時代に出た近松や海音の心中浄瑠璃の悲惨哀切なる情死の描写に比すれば、実に雲泥の相違である。それは要するに享保の禁令の威力に作者達の脅かされたがためである。