十六(私は以上に於て江戸時代に於ける情死の消長と)

私は以上に於て江戸時代に於ける情死の消長と時代の背景とを不徹底ながらも叙説した。それを総括すれば、情死は元禄期に至つて先づ上方に流行し、主として身分位置の低い男子と低級下層の売笑婦との間に行はれた。それは富の中心地たる大阪に於て富豪の輩出し奢侈蕩逸の風が起つたので、自ら下級の町民にも伝染し、悪所通ひに憂き身をやつす徒輩を踵出せしめた結果、遂に経済的に行詰り且つ商人に大切なる信用を失ふ者が多くなつて情死事件の頻出するに至つたのである。然るにそれを近松及び紀海音の脚色して心中浄瑠璃を創作し、艶麗又は哀愁なる名文巧句を以て恋愛的悲劇を描写したがためにその暗示を受けて情死をなすものが益々多くなり、大阪にては天和より享保の初期にかけて大約三十余年間情死が流行した。然るにやがて上方の文化が次第に江戸に移り都一中、宮古路豊後等によつて唄はれたる心中浄瑠璃の切々たる哀音と纒綿たる情緒とが、江戸人の剛膓をも軟化せしめてより、江戸にも情死事件の踵出するに至つた。仍て幕府は享保七年及び八、年情死を主材とする読物、狂言を禁止し、心中未遂者を所刑することになつたので、情死の流行も頓に終熄するやうになつた。そして宝暦、明和、天明を経て文化文政時代に入り、通とか粋とかを尚ぶ世相となつて恋愛の遊戯化され技巧化さるゝに至つた結果、いよいよ情死の傾向を減退することゝなつたのである。

心中浄瑠璃に描かれた男子を観ても知らるゝが如く、凡て情死するやうな男は正直で、小膽で、意志が弱く、而も情に強くして、享楽的気分に富んでゐるのがその通性である。されば、彼等はいよいよ情死を決行する間際になると多くは逡巡躊躇する。「曽根崎心中」の徳兵衛は「サア、只今ぞ南無阿弥陀仏」とお初に刀を当てようとしながら「流石この年月、いとし可愛と締て寝し、肌に刄が当てられようか」と非常に逡巡して「眼も暗み手も震ひ、弱る心を引直しても猶ほ震ひ、突くとはすれど切先は、彼方へ外づれ此方へ反れ」た程であつた。「笠屋三勝二十五年忌」に描かれた半七の最期も「心弱くては叶ふまじと、脇差し抜き放ちて胸のあたりに押し当てゝ、ハヤ今ぞ南無阿弥陀仏」と唱名しながら三勝の胸を刺し通さんとしても「拳も震ひ、眼も暗み、覚えず手より脇差も、二三度四五度おちこちの、人や見るらん恥しと、心に心恥しめ」た程、女を殺すのを躊躇した。しかし、いづれも女の方から早うくと促されて漸く情死を決行したのである。いざ命を棄てるといふ最期の場合になると、女の方が強い。これは心中浄瑠璃だけでなく、実際に於ても亦た然うであるに違ひない。その一身を捧げた異性に対する強い愛情と犠牲的精神とのために喜び満足して死するのである。

心中浄瑠璃に描かれた女性は主として低級の娼婦である。「心中天の網島」の小春は湯女から新地の白人に鞍替したもの。「笠屋三勝二十五年忌」の三勝は湯女、「生玉心中」のおさがも湯女出身の安女郎、「曽根崎心中」のお初「二枚絵草紙」のお島は共に嫖価四匁の低級娼婦である。彼女等の情死がその一面に於て惨ましい呪はしい生活や境遇に基いたことも明かであるが、併し糜爛しきつた浅間しい売笑生活を送れる彼女等が真剣の愛に渇してゐたことも情死者を多く出した原因であらねばならぬ。彼等も愛に生き愛に死する女性である。さりながら、その呉客越人を迎ふる彼女等の境遇は、その要求せる愛の相手を容易に発見することが出来ない。外面には浮き浮きした生活を送つてゐてもその内心は虐げられた愛の本能に泣き煩悶苦情の絶え間がない。されば偶々或る異性の胸に真の愛情を見出すことがあると、仮令ひその男が如何なる身分のものにせよ或は人三化七の醜貌にもせよ、直ちにそれに一身を託して衷心より愛情を捧げることになる。売笑婦の恋が素人のそれよりも強烈であるのは、要するにその愛の要求が常に満たされずして稀に満たされるからで、たまに真剣に自分を愛してくれる異性を発見すると、直ぐに一身を投げ出して暖かい愛の抱擁に陶醉して了ふのである。情死者が売笑婦に多いのも思へば異とするに足らない必然の傾向であり又帰結である。