五 比久尼

江戸時代の初期からあつた一風変つた私娼に比久尼といふものがあった。最初は勧進比久尼、午王比丘尼といつて、仏法の理を説いて人の門辺に立ち、米銭を乞うた尼僧であつたが、寛文の頃から大いに堕落して、野卑なる唱歌をうたひ売笑の兆をあらはし、天和年代に及んで全然売笑婦となつてしまつた。「我衣」には、此の比丘尼の風俗に就いて詳記してあるが、その要点を抄出すれば「天和貞享の頃は、浅黄木綿、白き浅黄もあり、素足、わら草履、菅笠手覆、かけひしやく腰にさし、文庫を持たせたり。元禄頃より黒棧留額巾を着す。これより他の色の布子を着す。されども無地なり。宝永より小比丘尼に柄杓をさゝせ、文庫をもたせたり。元禄より中宿ありてこれへ行く云々。享保九年、往来は木綿服なれども、中宿にては縮緬島八丈の紅裏模様を着す。夏冬黒ちりめんの投頭巾を着す。櫛笄さゝぬ遊女に等しく、けしからぬ有様なり云々」とある。然るに元文六年に武士と比丘尼が情死した珍事があつてから厳禁となつたが、しかし、なほ延享二年の頃までも神田の中宿に遊客を引きとめてゐた。

西鶴の「好色一代女」には貞享時代の比丘尼の状を記して、「大方浅黄の木綿 布子に龍門の中幅帯前結びにして、黒二重の頭かくし、深紅のお七指の加賀笠、うね足袋穿かぬと云ふことなし、絹の二布の裾短く取り、なりひとつに拵へ、文台に入れしは熊野の午王、酢貝耳かしよしき四つ竹、小比丘尼に定りての一升干尼、勧進といふ声も引切らず旅行節をうたひ云々」とある。このやうな比丘尼は貞享元禄の頃には、京都は建仁寺町薬子の団子、大阪は屋形町、江戸では神田から出づるを上とし、八官町を中とし、その他、浅草門跡前、京橋太田屋敷、同心町等所々に出でた。

万治の頃世に出た「東海道名所記」の中に、沼津の宿に比丘尼の来たことを記してあるのを見れば、当時既に地方の駅里にもあつたことゝ見える。「とかくする程に寝られもせず、亭主も出でゝ物語を初め、酒など少しづゝ飲みける処に、比丘尼ども一二人出で来て歌をうたふ。頌歌は聞き分けられず、丹前とかや云ふ曲節なりとて、たゞあゝああと長たらしく、引きずりたる許りなり」と記し、また比丘尼の有様を述べて「熊野伊勢にまいれども行をもせず、戒を破り絵ときも知らず、歌をかんようとす。繰りの眉細く、薄化粧、歯は雪よりも白く、手あしに臙脂をさし、紋をこそ附けねど、たんがら染、せんざい茶、黄がら茶、うこん染、くろ茶染に白裏ふかせ、黒き帯にこしをかけ、裾けたれて長く、黒き帽子にて頭をあぢに包みたれば、その行状はお山風になり、ひたすら傾城白拍子になりたり云々」とある。また山東京伝の「近世奇跡考」には「残口の記」を引証して「歌比丘尼、昔は脇挟みし文匣に着物入れて地獄の絵説きし、血の池の汚れをいませ、不産女のあはれを泣かするを業とし、年籠りの戻りに、鳥午王くばりて熊野権現のこと触れめきたりしが、いつの程よりか、かしく白粉薄紅つけて、つけ髪帽子に帯幅広くなし云々」とある。そして「紫のひともと」の記をも引いて、「めつた町に、永去、お姫、お松、長伝など云ふ名とりの比丘尼ありし由を記す。これ天和中のことなり。めつた町とは神田多町の古名なり。歌比丘尼といふもの、今は絶えて名のみ残れり」とある。されば文化時代には最早や売笑比丘尼の影を絶つたことは明かである。「続飛鳥川」には寛政以前には比丘尼の大橋にばかりあつたことを記し、「親子草(寛政九年版)」に「比久尼といふもの今は一向見当らず侯」とあるを見れば、既に寛政頃にも比久尼は消滅してしまつたのである。