元禄から寛政の頃にかけて、大阪及び京都には白人といふ私娼があつた。これは公娼を「くろうと」と云ふに対して「しらうと」と云つたのが遂に通称となり、之を漢音に呼んで「はくじん」といひ、また伯人、●(女偏に白)人などゝ書いた。今日の所謂高等淫売に相応したもので、大阪では島の内、新地にゐた。島の内の白人は、その始めは八幡筋や新屋敷辺あたりに寄寓して、茶屋に出入し痴情 をひさいだが、遂には縄然だる娼婦となつた。「守貞漫稿」には島之内の白人は 茶屋に行くに歩行し、また宵の間は帰りも徒歩であるが、朝帰りのみには駕に乗つたもので、「大阪非官許の遊女の最上」とある。「心中天之網島」の小春も北新地の白人であつた。寛政版の「虚実柳巷方言」には、白人を以て島之内、新 地の名物とすと記してある位、大阪では白人が流行した。京都では建仁寺のあたりに白人がゐたが、併し大阪ほどに盛んでは無かつた。