寛永以来、鎖国政策を厳行した幕府も、長崎のみを唯一の開港市として、和蘭人及び支那人に限り貿易を公許したので、海内の資本はこゝに向つて集中し運転せられた。江戸時代の初期は欧州に於て重金主義(メルカンチリズム)の行はれた時代であり、我国はこの際、世界唯一の産金国であつたので、利を射るに敏なる支那人、蘭人は長崎に来集して、年々莫大の金銀を吸ひ取つた。
たゞ貨幣のみあつて之に代ふべき工業産物の殆ど無つた当時に我国が毎年巨額の金銀を海外に奪はれたのは実に当然の帰嚮であつた。新井白石の「折りたく柴の記」に依れば、慶安元年より宝永五年に至る迄六十一年間に海外に出た金は二百三十九万七千六百余両、銀は三十七万四千二百二十九貫余に達し、銅は寛文三年より宝永四年まで四十余年間に一億一千四百四十九万八千七百片余が流出した。若しそれ以前以後に流出した額と私商の輸出高とをも合計するならば、外人に吸ひ取られた金額は実に測り知るべからざるものがある。此の如き事実は金銀を経済本位とし国富とする重金主義思想に囚はれた幕府当局者の到底坐視すべき処でなく、長崎貿易に制限を加ふるに至らしめた。即ち貞享二年には、唐蘭商船の貿易年額を規定し、支那は銀六千貫、和蘭は金五万両となし、更に元禄元年にはその船舶の数をも制限して唐七十隻、蘭五隻となし、正徳に至つては一大制限を加へ、唐は三十隻、貿易年額は銅三百万片(銀六千貫に当る)蘭は船二隻、銅百五十万片(銀三千貫に当る)となし、金銀の輸出を禁じた。但しその後、多少の変動はあつたが、幕府に緊縮制限を根本主義とし、寛政二年に至て、その数殆ど、前年の半にまで減ぜられた。
此の如く貿易年額を制限せられながらも、なほ莫大の利益があるので、唐蘭の船船は唯一の貿易場たる長崎に慕ひ寄つて奇利を博した。しかし、幕府は外人に貿易を公許しても、市内雑居を禁じ、和蘭人は出島に、支那人にはその対岸の地に居留せしめた。世人は前者を阿蘭陀屋敷、後者を唐人屋敷と呼んでゐた。彼等は貿易に因る多大の利益のために長崎に来ても、幕府よりその行動を拘束されて、思ふがまゝに振る舞ふことも出来ず、異郷の山川風土に接する自由も与へられなかつた。その不平不満と放愁とを慰めるものとしては、長崎の丸山及び寄合二町の娼婦が長崎奉行の公認の下に立ち替り入り替つて唐人屋敷阿蘭陀屋敷に出入することであつた。殊に支那人の中には必ずしも貿易の利益のためばかりに長崎に来るのでは無く、別に窈窕たる売笑婦に接して甘い歓楽に酔はんがために、好んで渡航するものもあつた。「西力東漸史」に「彼等が慕ひ来れる所以は、単に貿易に志して然るにあらず、抑々支那にありては、婦女たる者深く閨中に養はれて自由を得ざるを以て、彼等と談笑すべきは唯だ結婚して而で後、我が妻たる時を待たざるべからず、加ふるに大に日本と趣を異にし公娼を禁ずるが故に富者は好んで長崎に航し、若干の金銭を専ら酒色の資に供して大に市中を繁昌せしむる所ありき」とある。
長崎には丸山町と寄合町とに遊廓があつた。その公娼が支那人蘭人の居留地に出入したのは元々外人の願望に出でたものであるが、しかし、外人に対して何ごとにも苛察に取扱つた幕府が独り公娼の出入を許すが如き寛大なる処置を取つたのは、主として長崎港の繁昌を謀るがための政略であつたらしい。試みに享保十六年一月より十二月二十九日に至るまでの娼妓の売高を一瞥するがいい、唐人屋敷に於ける娼婦の出入人数は、二万七百三十八人、その嫖価金額、銀百三貫六百九十目の多きに達し、阿蘭陀屋敷にては娼婦の人数二百七十七人売上金高銀八貫三百十匁である。この計数は単に寄合町だけである故、之に丸山町の分を加へたならば、その二倍にもならう。少くとも一日五六十人、多きは二百人までも外人の居留地に出入したと伝へられてゐる。されば長崎の遊廓にとりては、外人が最上の得意客であつて、その収入の大部分は外人より捲き上げたものである「私共家業の儀は先親より唐人阿蘭陀人商売を第一に仕る渡世にて御座候」とは妓楼の主人の広言して憚らざる処であつた。我国が外人との貿易によつて吸ひ取られた莫大の金額も、その幾部分は長崎の遊廓が再び奪ひかへして、長崎港を賑かした。そこに幕府当局者の経済的政策の片鱗を見ることが出来る。尤も他の一面には、万里の波濤を蹴り幾多の危険を冒して長崎に来た外人に対し、種々の手段を以てその貿易を制限障碍し、且つその行動の自由を束縛した幕府としては、娼婦の出入を認許すると云ふ瑣細のことによつて彼等外人の不満を緩和し、無聊を慰めようとした政略の加味されてゐるのも亦た明かである。
公娼を外人の居留地に送り込むのは、一ヶ月六回(一、五、十、十五、二十、二十五日)で、五日毎に一回別店の妓と交代させ、それを出がわりと称した。しかし、外人の希望によりて五日以上に亙つて滞留することも出来た。しかし居留地に入る毎に前以て娼婦に左記の如き誓約をさせた。
一、唐人阿蘭陀人方より私共呼び申され候砌、内密を頼まるゝ書簡の取次ぎ又は金銀の取次ぎ曾て仕間敷候こと。
一、唐人阿蘭陀人方より揚銭のための価の金銀は申すに及ばず、端物の類遺はし候共、持ち出し申す間敷候。たとひ貰ひ申候共、一寸の切れにても隠し置き懐中仕間敷候こと。
一、出島、唐人屋敷へ参り候節、風呂敷包、櫛箱の内へ御法度の品々を隠し置き出入仕間敷候こと。
一、唐人、蘭人へ参り候節、日本人の儀尋ね候共、一言の沙汰仕間敷、又異国の咄承り申間敷候こと。
一、唐人蘭人に日本人方より内密の儀頼みかけ候はゞ隠し置かず、各方へ如何様の筋にても早刻申出づべく候こと。
かくの如く誓約した後、禿(かむろ)、虔婆(やりて)を伴うて居留地に入り、規定の日数を経て後、交代するのである。されど幕府は外人との性的関係以外の事項には、娼婦に対して厳密なる干渉を加へ、国内の事情を外人に語つたり、或は外国の話を聴いたりするのは勿諭、禁制品の譲り渡し、国秘の暴露を禁じ、また外人に密偵の疑ひのある場合には早速届け出づべきことを命令した。幕府の禁制品、所謂法度品なるものは、金銀(但し一定の額を規定す)金銀の細工物、金物、武具、武者絵、硫黄、塩硝、城廓に紛はしい絵、春画等の類で、一切外人に譲渡し或は売却するを厳禁し、また嫖価を受取る時にも現金の代りに銀札を以てせしめ、予じめ遊廓に備へ置きたる嫖客の名を列記せる帳簿と共に長崎の会所に提出せしめて代金の支払を受けさせるやうにした。また外人より物品を貰ひ受けることも禁ぜられたが、併し娼婦には甘言巧辞を弄して種々の物品を請求し密かに懐中して帰り、廓外に持ち出す者も多いので、居留地の門口には改所を設けて日夜番人を置き、探り番と云ふ者が出入のものを糺してその携帯品の有無を検査し、法度品の持ちこみ、又は外人よりの貰ひ品の持ち出しを防いだ。その検査法は普通は一応胸部を叩いてみるので、物品を隠慝するものは大抵顔色を変じたといふことである。また娼婦に限りて疑はしい時には、その臀部を叩くこともあり、此様な方法によつて居留地出入の娼婦を検査し、若し物品を隠慝したことの発覚した時には、之を没取し以後出入を禁ずる規定になつてゐた。正徳五年の布令の中に
游女の出人相改め候儀、大門の内にて吟味仕り、能き場所一所に集め置き游女、禿、遣手共に念を入れて相改め申すべく候。右相改候旨の趣、第一は唐人よりの書附又は日本人の書物、第二は游女、禿、遺手ども懐中の品或は皮籠包物の内、大小に不限、箱類すべて是等の内に金銀有無の儀、念を入れて相改め、その他、唐金銀、唐人より貰ひ候由にて所持候は、この訳を糺し、唐人より呉れ候段、紛れなきに於てはその游女に取らせ可申候条、有り体に申し出ずべく、すべて出入幾度なりとも相改め候次第同様たるべし云々。
此の如く、外人より貰ひ物を受くることを禁止しても、元来娼婦が好んで居留地に入り込むのは珍奇高価なる貰ひ物を獲得したいが為である故、種々の手段を講じて検査官の限を胡麻化し、密かに貰ひ物を持ち帰つたものである。就中、我国の貨幣は外人の最も所望するものであるから、娼婦はその依託を受けて衣服の裡に縫ひこみ、それを居留地内に持ち込んで外人に与へ、その代償として織物などを貰ひ受け、それを衣服や帯の類に仕立て、着用して出でたやうなことが尠くない。されば幾枚となく衣服を重ねて門を出でたことなどは殆ど普通となつて、衣服として着用した場合には、幾枚にても探番の咎むる処とならなかつたので、居留地内に滞留する間に、外人より貰ひ受けた織物類を悉く衣服に仕立てゝ身につけ、廓内に帰つて後、再び之を解いたと云ふ。併し、外人よりの貰物は固より織物に限らず、毛氈、真綿、砂糖等のやうな物もあつた。貰物を隠慝したことが発覚すれば、その物品を没取し且つ出入を禁止する規定であるが、併しそれすら往々赦免せらて内密で事が済み、公然の沙汰とならなかつたことも稀でなかつた。加之、貰ひ物品目を書きしるして許可さへ得れば、引渡さるゝやうな寛大の処置にあつた者さへある。
公娼以外の婦人は一切居留地に出入することを厳禁されてゐたが、併し珍奇な貰ひ物の欲しさに、町家の子女が娼婦に紛れて入り込んだことも稀でなかつた。シーボル卜の妻となつた楠本たきの如きも表面は娼婦として出島に入り、シーボル卜に侍したのである。同棲四年、おいねといへる一女児を産んだ。その血統はなほ今日まで連続してゐる、娼婦の妊娠した場合には左記の如き規定となつてゐた。(正徳五年の布令)
唐人の子を懐妊し候游女有之候はば懐妊のうちなりとも、その子出生の節なりとも、之を申し出づべし。唐人の在留中、園(居留地のこと)に於て出生し候子は、唐人在留中、其処にて養育し候儀、父唐人の勝手次第たるべく候。父唐人帰帆以後出生し候ば差図の上、唐人へ申し聞えべく候。且つ又父唐人の在留中、出生し候子、在留中は養育候とも、帰帆の後、その母に預り置候ては、その母養育なるべからず、然れば帰帆の後、養育のことは、在留中、父唐人と議定可仕儀勿論に候。懐妊の内、父唐人帰帆すれば出生已後の儀、議定可仕儀、これ亦同前に候、惣じて此儀苦しからざる事につき、向後有体に可申出候。但し唐人の子を本国に連れ行き度き由願ひ候共、其段は令停止候事。
右は唐人屋敷に関する布令であるか、出島の阿蘭陀屋敷に対しても矢張り同様であつた。外人の胤を宿した場合には、其筋に届け出でしめ産児の養育のことに就ては相手の外人と協議の上、自由に決定しても差支なきことになつてゐたが、併し普通の慣習としては、娼婦の妊娠した時は、一生涯の養育料として母子二人前の金額を外人に請求したものである。されば貧家の娘で娼婦となり外人に馴染んで偶々妊娠したならば、一生涯徒手游食してゆけるだけの金子を請求し得られるのであるから、外人の胤を宿すことは公娼の身に取りては思ひも寄らぬ成効であつて、決して恥辱でなかつた。幕末時代、横浜の娼婦某は、米人の嫖客を拒絶して「露をだに厭ふ大和の女郎花、降るアメリカに袖は濡らさじ」と詠んだ上、自殺したと云ふ壮烈な挿話もあるが、之に反して長崎の娼婦は、自ら好んで外人に肉を売り、且つ妊娠といふ万一の僥倖を期してゐたのである。加之、外船入港の風聞のある毎に、長崎市の景気は俄かに活動したもので、その所謂景気なるものは、主に中流以下の社会の状況如何によつて左右せられるのであるから、是等の社会が如何に外舶の出入と密接の関係を有つてゐたかを知り得られる。長崎の繁昌を以て娼婦を始め日雇人等の物品の密資買に帰した人のあるのも蓋し故なきに非ずである。そして、娼婦の妊娠すれば、母子二人の一生涯の養育料を請求することが出来るのであるから、彼等の中には、外人の子と詐つて不正の金を貪ぼつたものもあり、また妓楼は、外人の游客によつて多大の利益を獲したので、当時唯一の開港場たりし長崎市は、軽佻淫靡の空気に包まれてゐたのであるが、併し娼婦と外人との間にも相思相愛の中となつて情死した者も稀にあつた。天明元年、支那の商人と丸山の游女との心中事件は、世に珍らしい出来事と思はれたと見かて、彼等の辞世の書きつけが今なほ伝つてゐる。
南京 蘇州人 陳仁舍(二十二歳)
欲語紅涙満綿莚。粉黛明鏡更場憐。千年愁夢一時盡。共為北●(亡+こざとへん)山上烟。
吾妻屋 れんざん(十九歳)
降りまさる 涙の雨のこがらしも 今日を 限りの言の葉草に