王朝時代には肉つきの好い色の白い丸顔の女が美人と看做されてゐたが、降つて鎌倉、室町時代を経て江戸時代の中世に至るまでも、矢張り豊賦円満のお多福型の女が美人型の標準となつてゐた。浮世絵の開祖と云はれてゐる寛永時代の岩佐又兵衛の描いた美人画は、いづれも前額の広い眼尻の下つた、脂肪分の多い丸顔の女性である。歌舞伎芝居の元祖の出雲お国や、豊太閤の寵妾たりし淀君の如きも、又兵衛式の肉附きの好い体格の丈夫な女性であつた。降つて貞享元禄の頃になつても、脂肪分の濃厚な大柄な女が美人として描かれてある。西鶴の「好色一代女」に元禄時代の美人の容姿を描いて「当世貌は少しく丸く、色は薄花桜にして、面道具の四つ不足なく揃ひて、目は細きを好まず、眉厚く、鼻の間せはしからず、次第高に、口小さく、歯竝みあらあらとして白く、耳長さあつて縁浅く、髪はわざとならず自然の生え留り、首筋立ちのびて後れ髪なしの後る手」とある。当時代に於ける上方美人に対する好尚を描いて殆ど間然する処が無い。此種の美相を鮮明に描写したのは、上方の浮世絵を開いた西川祐信である。その美人画は、捨て下膨れの丸顔で、余り広くない額に毛の生へ際は自然のまゝで、眉毛の稍々濃い、眼のバツチリとした女性である。菱川師宜の美人画も、矢張り丸顔のふつくらとした輪廓をもてる肉つきの好い女性である。啻に女ばかりでなく、元禄前後に於ける若衆や俳優等の男子の絵を見ても、同様の形貌を呈してゐる。
然るに享保の末頃になると、美人の顔が少しく長くなって下膨れの度が減じ出してきた。それは奥村政信等の手に成つた浮世絵を見れば分かる。次で、宝暦、明和の時代に入ると顔は愈々細くなり、姿も細つそりした、華奢な痩形となつた。その代表的絵画は鈴木春信などの浮絵である、明和安永になると全く顔の細長い、眼の釣り上つた柳腰の女が美人画として描かれるやうになつた。それは勝川春章の浮世絵に徴しても明かであるが、更に天明より化故時代に至れば這般の傾向が一層顕著となり、歌川豊国、喜多川歌麿等の手に成った浮世絵の美人は、いづれも顔の至て細長い、眼の著るしく釣り上つた、癖せぎすな女である。
以上説くが如く元禄前後までは丸顔の下膨れのした脂肪分の豊かな女性が美人の典型であり、天明より化政時代に入つては、これと全く反対の顔の長い痩形の女が美人視せられるやうになつて、時代の美的好尚の全く一髪したのは抑々何故であらうか。私は此の原因を以て、時代文化の影響と、演劇に於ける女形俳優の影響とに帰せざるを得ない。
抑々元禄時代の前後までは上方が文化の中心となつてゐた。優長で且つ上品なのは上方の特長である。丸顔のふつくらとした肉つきの好い女は、温い感情に富んだ柔和温雅な容貌として、如何にも上方趣味に適してゐるので、此種の女性が美人型として愛好せられたのである。関東に住んでゐた菱川師宜でさへその描いた美人の容貌は上方式で、その多くは下膨れのした丸顔であつた。然るに享保以来文化の中心が漸く江戸に移り、天明より化政時代に至ては江戸の文化が中心となつた結果、粋と意気とを尚ぶ江戸市民が凄味のある仇つぽい面長の痩形の女を好く趣味的好尚が自然に一般を風靡して、此種の類型の女性でなければ美人と看做されないやうになつた、上方式の温かな柔か味のある丸顔は張りと意気地とを賞美する江戸情調に適しない。粋と意気とで鳴らした、深川や堀の芸者で美人の名のあつたものは、いづれも豊国式、歌磨式の仇つぽい女性であつた。江戸に文化の誇つた享保時代の末頃に栄えた奥村政信の美人画より顔の輪廓の少し長くなつのたのは要するに上方趣味の次第に廃れて江戸趣味に移つたことが浮世絵の上にも顕はれた象徴であつた。天明より化政に至るに従ひ、細長い仇つぽい、凄味のある容貌が鮮明に描写せられて江戸趣味を遺憾なく発揮するやうになつた。
上記の時代趣味の影響の外に第一の原因として挙ぐべきは、演劇に於ける女形の容貌が女性美に及ぼした影響である。元禄時代前後の頃までは、男優が女子に扮装しても、未だ女の髷を冠らず、その没趣味なる野郎頭を掩ふて優美の趣を添へんがために、所謂野郎帽子を頭に載くに過ぎなかつた。その初めは玉川千之丞の創意に成つた黒頭巾を上にて折り込んだが如きものであつたが、次で方形の絹の四隅に錘をつけて額に戴せるやうになり、更に水木辰之助等の意匠によつて、紫色の縮緬をば載ぜるやうになつた。此種の所謂野郎帽子は元禄より享保の間に行はれたもので、野郎帽子といへば紫色の縮緬に限られてゐた。「心中天之綱島」の道行き文句に「走り書き、謠の本は近衛流、野郎帽子は若紫」とある。当時は鬘及び附け髪は幕府の禁ずる処であるから、女形の中には野郎帽子を戴く他に自己の頭髪を婦人の風に結んで舞台に現はれる者もあった。此の如く当時に於ては女形の俳優は鬘を被ぶることが無かつたから、丸顔のふつくらした肉つきの好い自然の容貌のまゝで舞台にあらはれ、従て観衆も此様な顔貌を賞美してゐたのである。然るに時代好尚の進歩につれて、鬘の製作せられ、次第に精巧を極めるやうになつて、幕府も之を黙許するに至り、また女形の外、男子に扮するものも髷を用ゆるやうになった。今日の如き鬘の始めて出来たのは第二世の瀬川菊之丞(王子路考)の頃からで、この女形は安永二年に死亡した俳優であるから、既に明和の頃より用ひたものであらう。この鬘のために前額が狭められ、頬は殺げて丸顔も長く見える。その上にも女形なるものは普通の女性に比して身体は痩せ、脂肪分に乏しく、腰のまわりは細い。此様な男優の美人に扮装して舞台にあらはれた嬌委艶態は、花柳の巷に次で劇場を第二の享楽世界とせる世人の眼を喜ばせたので、肉つきの好い丸顔の大柄 の女は何時しか排斥せられて、爪実顔の痩せぎすな女の方が自然に美人の典型と目せられるやうになつた。加之、女形の似顔が色彩麗しい浮世絵に画かれて世俗の歓迎を受けるやうになつてからは、益々女形の容姿に近い面長のすらりとした女性が美人視せられてきた。明和安永天明の時代より文化文政の時代にかけて、文芸及び奢侈の中心となつた江戸にては、演劇も之に伴ふて著るしく発達した結果、世に持て囃された有名なる俳優の扮装する舞台上の美人の容姿が、やがて実際的及び理想的美人の標準となって、当時代の好尚に多大の影響を与へ、在来の美型を根本的に破壊して豊国式、歌麿式の繊弱細長の女性が美人の標準となつたのである。